仏教徒の道しるべ  スコット・ノーブル

 この稿で私はテーラヴァーダ(南方)仏教に的を絞って見たいと思う。それは主にスリランカ、タイ、ビルマ、カンボジアおよびラオスに見られるこの仏教形態が釈迦牟尼の当初の教えに最も近いと主張されているからである。他の宗派も同様にそう主張しているが、歴史的 (神秘的でなく)

に見れば南方仏教の主張が最も正当性を持っているように思われる。仏教について書かれたものの多くは、釈迦の教えが理想化されており、表現も完全とは言えない。このことは、テーマが膨大なため致し方の無い難問であるが、一段と難しい問題はさておいて、仏教の前向きな面に重点を置く人々によって良い方向に向かっている。私はこの稿でその全体像を示そうというつもりはない。ただ、仏教は実に魅力的に構成されているものの、人がその運命を全うする上で救いとはならないことを示しながら、仏教の曖昧で未知な中核問題と矛盾点を指摘したいと思う。また同時に、南方仏教と聖書の教理に基づくキリスト教信仰との比較を行なってみたい。このことを、私は以下の8つの副題、すなわち無我、再生、涅槃、業(因縁)、女性、瞑想、科学、および神について明らかにしていこうと思う。 

 

無我

デカルトは「我思う、故に我あり」の言葉で知られている。この自己存在の証明について、仏教は全く異なるアプローチにより、「我、存在せず」の観念で結論を下した。ジョン・ギャレット・ジョーンズは、その著書「釈迦物語とその教え:パーリ聖典につらなるジャータカ物語(本生話)」のなかで、より正統派であるパーリ聖典の第4ニカーヤに比較して、いかに釈迦の教えの描写が、本生話にみられる通り、広く人々に親しまれているかに注目している。パーリ聖典協会の前会長I・Bホーナーは、この本の序文で次のような推奨の言葉を述べている:「ジョーンズ氏は本生話とパーリ聖典の双方に精通しているので、研究が順調に進んだだけでなく、適切、正確で信頼性の高い文書証拠固めが出来た (ⅶ) 。」ジョーンズは再生の章の中で、正統派の信仰によれば仏教はこのような存在を認めないので、魂は生れ変れないことを指摘しながら、「無我」の教義について述べている:「識」というものは、死の時点で消えてなくなる五蘊(ごうん)の一つである。身体そのものや、もし我々が望んだとしても身体に関連したものがなくなれば、どうして人の意識が死後に生き残ることができようか?ゴータマ(釈迦)は実際、 中間の長さの発言集(MLS)1313および320のなかで、「識」を持続するという「異端の教え」に対してキッパリと反論している(34)。

 

 「無我」の教理は釈尊が死後に蘇ったという本生話の総ての前提を覆す事になってしまう。「我」なくして生命から生命をつなぐものとはいったい何であろうか?通常、この質問に対して与えられる解答は、人間が背負っている業(因縁)である。しかし、もし背負うべき因縁を持つ人がいなければ、この因縁というものは何に付着しているのだろうか?ダニエル・J.ゴージャリーは、1885年版「キリスト教信仰の証拠と教義」(パーリ聖典研究44年後)の中で、次のように書いている。

「仏教徒の信仰は釈迦が教えたものであり、それは彼の経典の中で述べられている。そしてこれらの教えを知らない人々とは関りのないものである。我々はまず、仏教の教えを検証してみよう。そこでは、ある行為をなした人がその報いを受けたり或いは罰せられることはないとされている。その関連性は実行者とその善悪の結果との間にあるものではなく、これらの結果を受ける者が誰であろうと、なされた行為とその結果の間にあるとされる。このことは、善行者は報いを受けるという、一般によく知られている正義の原則に反するものであるが、仏教に於いては報いは善行について回り、善行をした者が必ずしも報いを受ける人にはならない。この仏教の教義は、輪廻を繰り返す人の中に魂というものは無く、人の存在に関るもの(五蘊)は死をもって終わりを迎えるということである」(54-55)。

 「無我」の教理は、例えばアドルフ・ヒットラーが死に、彼にまつわる一切の“存在”(五蘊)が消滅したときに、彼の極悪の“業”は誰か(あるいは低級レベルの昆虫か何か)に付着することを意味するが、そこにはその悪魔的な所業についての認識も、災難に対する理由づけも全くない。一体、これが正しいと言えようか。「誰」が処罰を受けるのだろうか?「誰」がこのシステムの中で報償を受けるのだろうか?仏教では「己れ」という言葉が用いられるとき(例えば「己れの向上」「自らの安息を得る」という風に)、この言葉は明らかに、目指すべき「自己」を表現するのとは対極的に便宜的に用いられている。ウォルポー・ラーフラは、その著書「釈迦の教え」の中で、仏教における「自己または魂」を求めようとする人々に対して次のように答えている:

「仏教において「自己」を見出したい人々は次のように主張する:“釈迦は確かにこの世における存在を色、受、想、行、識に分析しこれらには自己というものはないと述べている。しかし、彼は人間もしくはそれ以外のものに(これらの五蘊とは別に)「自己」というものが全くないとは言っていない。”この立場は、二つの理由により批判に耐えられない:一つは、釈迦の教えに従えば、この世の存在はこれらの五蘊だけで出来ておりそれ以外にはありえないと彼は述べていることである。二つ目の理由は、釈迦は一度ならず明白な言葉で、人間の心の内外或いは宇宙のどこにもアートマン(霊魂、自己あるいはエゴ)というものは存在しないと断言しているからである」(56-57)。

「我」というものはないが再生はあるという教えにも拘らず、釈迦は依然、宇宙は超道徳なものではないことを確信していた。この世は道徳的な宇宙であるとする釈迦の確信と関連させながら、ジョーンズは次のように結論づけている:「彼は合理的かつ分析的な点において、自らの信念がしっかりした基盤を持っていることを主張出来なかった。実際のところ、これらの二つの間には容易に妥協を許さない絶対的な矛盾があると言っても過言ではなかろう(36)。」しかし、もし「魂」というものがなければ、なぜ仏教徒はかくも長期に亘って生き返ることを免かれ、そしてまた、釈迦はなぜ彼の最後の復活(釈迦対話集Ⅱ.12)のとき、彼の“最後の復活”だと宣言したと言われるのだろうか?「誰」の最後の復活だというのだろうか?“もし人が全世界を手にし彼自身の魂を失ったとしたら、それはその人にとって何の益があろう。また、人は魂と交換して何を与えようというのだろうか?(マタイ伝16;26)。”

 

再生(魂の復活)

 ついに釈迦牟尼が誕生し彼がこの世の悦楽に別れを告げた、という人口に膾炙した物語について、ここに大きな疑問が生まれてくる。もし釈迦が実際、数えきれないほどの前世の人生を生きたとすれば、なぜ彼の父は人生のきびしい面から彼を遠ざけようとしたのか?なぜ釈迦は修行のために世間を見る目的で王宮を抜け出たとき、死、貧しさ、老化といった現実の姿を見て驚いたのか? もし、我々が本生話の復活物語を額面どおりに受け取るならば、彼は人生のこういう厳しい現実のすべてに精通していたに違いない。事実、本生話によれば、彼は時として人生の苛酷な側面に関っていたのである。この一連の話の中で釈迦牟尼は、それとは知らずに殺人や傷害に加わっていたと述べられている。関連する個所は本生話93、128、129、152、178、233、238、246、315、319、384の物語である(ジョーンズ61ページ)。本生話547話のなかで、彼は二度窃盗を働き、ある時は賭け事師となり、また二度ほど巨大な蛇となっている(ジョーンズ18-19)。538話によれば苦難についてよく知っていたことが述べられており、ウッサダ地獄に8万年居たことになっている(同43)。それでは、なぜ彼はあたかもこれらのことを経験したことも見たこともなかったかのように、死や病の事実に直面して打ちのめされたのであろうか? この質問に対する一般的な解答はこうである。:即ち、前世の記憶は瞑想の状態でしか思い出すことは出来ず、その時は心が惑わされる事なく深く記憶の中に入り込んで行くことが出来るとされている。しかし、心や人が構成されていると言われるもの(五蘊)はすべて死とともに生き残れないとされていながら、如何にして心はこのような情報を保持できるのだろうか?ただし、実際には、この釈迦の克己(悦楽との訣別)をパーリ聖典の中に見出すことはできない。

 

パーリ聖典の中で、釈迦は生まれてすぐ真っ直ぐ立って歩き、これが自分の最後の生れ変わりであることを宣言したと言われている。“我は世の主であり、世界一の長寿者であって世の第一人者である (DⅡ.12) ”。もし不朽の魂と言うものが無ければ、どうして幼児がこのような高尚な言葉を話すだけの成長ぶりを見せられるのだろうか?非正統派の物語の立場からは「無我」の問題が浮かんでくる。瞑想の論理では、どうして35歳の釈迦が彼の教えに従えば不朽の魂ではないものを“記憶”出来たかということが説明できない。正統派の物語の中でもなお無我の問題は残る。それは、釈迦の無我の教義は、人の最後(死後の世界)を見て安堵する不滅霊魂の立場から語り出す幼児とは鋭く対立するからである。

 

無我と再生に関る教義上のミスマッチは識者に不満を残すものであるが、一方で創り出した道義性をもって識に歩み寄ろうとする試みがなされている。:「二つの主張が対立するとき、最も単純な解決法は何れか一つを無視することである-----まさに本生話でなされたように。本生話においては無我の教えと、同一人物の生命が連続するという教えとの間に矛盾するところはない。それは無我の教義は簡単に無視されているからである(ジョーンズ39)。釈迦は品行方正であることを望まなかったし、彼のやりかたは人々を知能的にまた利益誘導的に矛盾に導くものであった。悪人も善人も現世から次の世への魂のつながりは無いと言われ、かくてとくに“多く”を得た者はそれを“稼いだ”者ではないとされた。

 

 しかし、再生についての教義上の難しさとは別に、再び生まれ変わったと主張する人々の現実の人生とはどんなものであろうか?アーネスト・ヴェリーは、彼のウエブサイト(www.comparativereligion.com/reincarnation1.html)「人間再生の現代的証明としての過去追憶」のなかで、蘇生/人間再生の研究分野における第一人者イアン・ステイ-ブンソンの言葉を引用している。

「私の経験では、殆どすべての催眠状態で呼び出されたいわゆる前世の人格というものは全く観念的なもので、催眠術者の暗示に従う患者の一途さによってもたらされたものである。誰しもが、催眠術のもとで大きな暗示を受けることに疑問の点はない。実際、この研究は危険性を含んでいる。ある人は彼らによって引き出された記憶にひどく驚き、他のケースでは引き起こされた前世の人格は長い間心から離れなくなってしまった(オムニマガジン10(4):76(1988))。」

ヴェリーは、この現象は「偽りの記憶症候群」と呼ばれ、「法廷ではこれらの危険性を認め、大抵の場合“催眠状態”で行われたり、事前に催眠状態にされた証人の証言は採用しない」ことを指摘している。その他の、催眠術によって呼び出されなかった“記憶”の場合はどうなるのか?ヴェリーは、通常これについて照準とされる人たちの人口(バラツキ)統計に注目するよう求めている:

「思いつくままに語られた過去の人生についての追憶体験は、大部分が2歳から5歳までの子供たちによって語られており、そこには精神的な物事(とりわけ霊魂について)の判断能力というものは存在しない。この状況は永遠の魂というものによって容易に操作されてしまう。子供が成長するにつれて、存在は彼に与える影響力を失い、そのために過去の人生記憶は10歳以後失われてしまうと説明されるのである。」

ステイ-ブンソンの研究のなかに、同時に自己を表現する二つの人格を持っていたという一例がある。ある子供の場合に見られるように、まだほんのか弱い時期に(とくに、両親が彼らを精神活動を調べる施設に連れて行ったとしたら)霊魂が現れた場合、魂の所有者(または“中間の存在”として行動する人物)というものは本物のように見えるものである。この外界の霊魂による干渉は、再生の研究がとくに主観的な性質を持っていることを示している。ヴェリーはステイ-ブンソンの結論をもとに締めくくっている:

「以上の理由について、この現象の研究で知られるイアン・ステイ-ブンソンは彼の著書“権化(魂の再現)を示唆する20例”のなかで次のことを認めざるを得なかった。即ち、まさしく彼の本のタイトルにあるように、彼が研究したいくつかのケースは権化を暗示するのみで、それを証明することはできなかった。さらに、ステイ-ブンソンは次のように続けている:私が調査した事例には欠点がある。これらをまとめて見ても、それらは証拠らしいものを示すことはできなかった(オムニマガジン10(4):76(1988))。もしこれが事実であれば、それらは魂の所有というものを暗示するものになったであろうが。」

外部の霊魂がこのような方法で人を偽る可能性を考えるとき、なぜか瞑想を行なう僧侶や尼僧がこの外部の影響から免れていることをどう考えればいいのだろうか?瞑想とは本来、このような外部からの影響に対してさっと扉を開くものである。僧侶たちは瞑想の中で多くのことを経験し、釈迦の教えを確めるであろう。しかし、彼らは実際そうしているのだろうか?彼らが最初にこのような“記憶”を得ようと努めたとき、そしてその経験は大部分が主観的なものであるときに、我々は本当にこの事を確認したと思えるだろうか?ある人が自ら知り得ない情報を現すことができたとしても、この情報というものは外部の魂が知りえたもの、伝えることができるものなのである。

 

 なぜ人はこのような“記憶”を手に入れるために催眠術にかけられたり、子供の察知能力を得たり、瞑想のなかで意識が変えられなければならないのだろうか?もし再生が“まこと”のものであれば、文化的な背景は別にして、なぜ世界の数十億の人々の中でそれを明らかに出来ないのだろうか?なぜ幼児が“前世”の言葉やそれらの事柄についての言葉(汚いものは別にして)を話すことができるのか?このことは、恐らく再生の教義を創案するための理由であろう。そして、それが道徳に関する領域で矛盾を招き、生命から生命への連鎖をもつという実際的な問題を未だに解けないでいるのである。何はともあれ、“人間たちは一度死ぬと、その後に裁きが下されることが約束されている”のである(ヘブル人への手紙9:27)。

 

涅槃

 チルダースは彼のパーリ聖典の中で、涅槃とは何かということに対して明白な解答を与えている。彼は述べている:「しかし、“生存は苦痛(苦難)である”と主張することに始まる信仰は、存在を解かれることが最高のものであると主張して結ばれるべきである。したがって、死滅は仏教の最終到達点であり、その教えの忠実な遵法者に与えられる至上の報酬である(265)。“死滅”というのはこの場合、最適の言葉ではないだろうが、そこには人の考え及ばない他の理由がある。ワルポーラ・ラーフラはこう指摘する。「涅槃は明らかに存在自身の滅失などではない。それは、滅失するものに実体は無いからである。もしあったとしても、それは幻想、つまり己についての誤った観念の滅失である(37)。」

 

涅槃を“無上の喜び”と呼び、他法で“絶滅”と呼ぶ聖典派の言葉を解説するなかで、チルダーは、双方とも意味するところは同じだが、“無上の喜び”は最終死滅の前の一時的な状態に過ぎないと説明している:

「私は仏教の到達点は死滅であり、そして涅槃は永遠の死に先行するほんの短い無上の喜びであることを示した。もちろん、釈迦牟尼が“悟り”の境地を彼の門弟たちが到達する最高レベルのものとしたことは十分考えられる。このことは道徳的な生活によってもたらされた無垢の幸せな状態を思い起こす人々には信じ難いことに見えるかもしれないが、全てが彼の死滅ということで終わってしまうのである。しかし、彼がこのように行動したことは確かであり、次のことを忘れてはならない:即ちそれは、彼が悪を非難し人生の苦痛を味わったことは転生に対してのみならず、それがどのようなものであれすべての存在に対して向けられること、また悟りの喜びというものは因縁(業)に発しいつかは消滅してしまう意識に基くということである」(268)。

 ラーフラは同様に涅槃は存在の終末であると述べている:「涅槃を得た仏や阿羅漢(聖者)の死を意味するパリニブットウという言葉があるが、これは「涅槃に入る」ことを意味しているものではない。パリニブットウは単に“完全に死ぬ”“死去する”“死滅する”ことを意味しているが、これは他の仏や阿羅漢はその死後に再び存在することはないからである」(41)。

 

仏教における宇宙論では、31の王国が存在し、そこにはさまざまな天界、地獄、現世などがあるとされている。しかし、これら31の中の多くは天界の“無上の喜び”の状態にあり、何れも涅槃ではない。それらすべてはどうやら一時的な仮のものであり、苦痛を伴うものと言われるからである。天界でさえ涅槃になりえないとすれば、涅槃は存在を超えたものと言うことが改めて理解できる。存在する31のなかで、上位の20はこれら瞑想状態と同様のものと言われる。言い換えれば、瞑想する人はこれら20の王国が象徴するものを経験できるとされている。人が達成できる最高の瞑想状態はまた、涅槃に求められるものをぴったりと表すのである。

「成就」として知られる第9のステージは、よくいくつかの経典で述べられている。この段階ではすべての思考作用が完全に中断され、心拍や呼吸さえも停止する。生命はただ体熱だけが残った姿で生存する。人はこの状態で数日間は生き続けることができ、それは前もって定められた時に自然と現れると言われている。この状態は人がまだ生存中に最終的な涅槃を経験できるときに最も近いもので、“肉体で感動する涅槃”として表現されている(キーエン91-92)。

 精神作用さえ中断された時、我々はそこから完全な停止に至るまでそう遠い道程はないことが理解できる。そして、それはさらに解脱へと突き進み、最終的には生存から解脱へと最高潮に達するパーリ聖典の進歩の教えに一致するのである。

 

 パーリ聖典における涅槃は“無上の喜び”か、それとも“停止”の状態か、との議論のなかで、ジョーンズは次のように注釈している:「もしこれが“無上の喜びとしての涅槃”にあたるとすれば、私の知る限り、第4ニカーヤのなかに涅槃について明確で超哲学的な無上の喜びとする考えを支持するような言葉は一つもない(152)。」ジョーンズは南方仏教学者の中で最も支持されている見方に光を当てている:「ジャヤテイレーケが涅槃について超哲学的な見方を持っている一方で、彼の教え子カルパハナがこのことで彼を非難し(南方仏教学派内で)さらに一般的な停止論者的見方を再主張している(202)。」

 

 A.Lハーマンは彼の著書「仏教における二つのドグマ」の中で、大乗仏教と南方仏教の双方に関連させて、涅槃についてのもう一つの難しい点を指摘している。最近の大乗仏教学派が涅槃は無上の喜びだとする考えを支持する一方で、他の一方の正統派南方仏教学派は常に涅槃を停止とする立場をとる。ハーマンは、どの解釈をとるにせよ、それは相矛盾するものにおける一つの独断であると主張するのである:

「涅槃の矛盾は、もし涅槃には情熱・欲望・感情などは全く存在しないとして否定的に見られたとしたら、それは死と同じものであり、誰が死へと導くゴールを追求しようとするだろうか?涅槃はこの最初の解釈においては自殺行為である。一方において、もし人の求める涅槃が平和と平穏の存在であれば、願望は終息したり破壊されたりすることはなく、涅槃の全体の趣旨に反することになる:即ち、涅槃はこの第二の解釈では一貫性のないものとなる。しかし、涅槃に関する矛盾はさらに続き、それを否定するにせよ、肯定するにせよ、よく考察されなければならない。第三の選択はない。この矛盾の結論はつまり、涅槃は自滅的な消滅か永続性のない一時的なものか、その何れかということになる」(170)。

 ハーマンは、次の地味な脚注をもってこう結論づける:「これらの哲学的な問題について確かな根拠のない独断を抱くことは結果的に仏教を経験則から彼方へと押しやり、真理が全く無用のものとされる疑わしい実用主義か、真実が全く捨て去られてしまう非理性論か神秘主義に向かう(或いは向かった)ことであろう(174)。」この結論の脚注の中でハーマンはさらに説明を加える:“疑わしい実用主義”や“非理性論”また“神秘主義”といったものは、まさしくその後、南方(テーラヴァーダ)仏教、北方(大乗)仏教の何れもが辿った道なのである(174)。

 

もし我々が最近の大乗仏教の観方が正しいと言えば、釈迦牟尼の実際の教えに最も近接したパーリ聖典の教義に反することになる。もし大乗仏教派が異なる解釈を主張した場合、それはどのような一段高い権威に基づくものであろうか?このことは釈迦の権威を否定し、それに代わって神秘的なお告げに依存することとなる。他方において、もし我々が死滅についてのパーリ聖典の観方が本当に釈迦の教えであると認めれば、ハッキリ言って、仏教徒の道は“もし人が善行をなしたとしても、必ず消えてなくなってしまう”ことになる。大乗仏教がこの教義に変更を試みたことは疑いのないところであるが、これをバックアップする権威がないために、それは徒労に終わった。しかし、(死に関する)当初の主張もまた、その背後にある権威が十分ではない。苦難や生存の主な特徴である苦痛へと導く願望に代わって、希望と再起への道がある。生きることから逃れる代わりに、イエスキリストは意義ある永遠の人生を生きるために、渇きを癒す方法を教えている:“この水を飲む人は皆、再び渇くであろう。だが、私が与えることになる水を飲むなら、その人は永遠に渇くことがなく、私が与えることになる水は彼のうちで永遠の生命にほとばしり出る水の泉となることだろう”(ヨハネ伝4:13-14)」。

 

カルマ(業)

 カルマ(業)の仕組みは、起ったことはすべて起るべくして起ったように思わせる点で最も見近かなレベルで人々に訴えるものである----もし善いことをすれば報いを受け、悪いことをすれば報いを受けるという風に。これは明らかな不正と同様に、この世の不公平さを説明するかのように見える。しかし、この仕組みの意味するところにもっと注目してみよう。まず、“業”はちょうど、物質的な事柄でなく(物的な事もまた他に影響されると言われるが)人の道徳心のみを制御する重力のような自然の法則であると言われている。もしそれが自然の法則であれば、遺伝学が時として予期しない(そして多くの場合有害な)要因によって影響を受けるように、人生の浮沈のテーマになれると言えないだろうか?どうして、我々がこのような仕組みを信用することができようか?この矛盾点に関連して、ジョン・ジョ-ンズはこう指摘している:「業の結末に関する道徳性(倫理性)は、業の過程についてのきびしい非人格性に対して疑問点を呼び起こす。それは、もしこれらのことが道徳の過程であるとすれば、我々が経験によって真偽を立証できる道徳のタイプは唯一その人格に関わるものだからだ。このように、業の非人格性と道徳性の性質の間には緊張関係がある(37)。

 

業によってもたらされる結果は、パーリ聖典の中に明確に列挙されている(MLSⅢ.p.248~253):「この場合は極めて残酷、無慈悲に生き物を殺傷しようと襲いかかるので、短命なバラモン若者となる」。その反対はこうである:「この場合は、もし人が生き物への強襲から逃れてこれを回避し棒や剣から免れることができれば、すべての生き物に対して慈悲に満ち心優しい生活を送る事ができる長寿の若者となる」。これらとは正反対の結果は容易に考えつくことができるし、またその簡潔を図るためにここに否定的な結果のみをいくつか挙げてみた。これら引用文の省略部分は経典の通りである(私が省略したものではない):

「この場合は、元来その手や剣でもって生き物に害をもたらすところから、多くの病に導く」。「この場合は、怒りに燃え憤怒を示しているところから、醜悪さをもたらす。」「この場合は、他人に対する尊敬や敬意をねたむが故に評価されない。」「この場合は、人にベッドや一夜の宿や灯りを与えないが故に、貧しさをもたらす。」「この場合は、称えるべき他人を称えないので、家族の不幸をもたらす。」「この場合は、人が尋ねるべきところを尋ねないので、知恵を欠くことになる。」----それでは、私がしたことによって、私が幸せになるためには何が求められると言うのであろうか?

 このように、人の短命、病、醜さ、低い評価、貧しさ、不幸な家庭、知恵遅れといったものについてその理由が説明される------即ち、これらのことは前世においてなされた悪行、雑言、悪意によるものである。これらが前世からの原因によるという表現は最初の結論の中にみられる:「しかし、釈迦が死んで身体が壊れたあと、彼は悲しい道、この世との境界線、破滅の場所、ニラヤ地獄に現れることなく、人間界に立ち還り、それからは生まれるたびに(新しい存在としての)彼の人生は短いものであった。」これが、人生は不平等だがそれは業(因縁)によって人はそれにふさわしいものになっていると説明するやりかたである。このシステムは、人々がそれにふさわしいものにしたがって、貧しいものは貧しく、富めるものは富むにふさわしいとされる。この種の考え方は、足の悪い者は牢につながれた罪人と同じ範疇に置かれ、富裕の者は英雄の範疇に入る。果たして、これらの結論は本当に保証されているのだろうか?

 

 人の一生における種々の道徳上の影響はすべて知的なものとしてではなく、単なるエネルギー源によって記録されるとされている。そして問題点を和らげるために、いかにしてこの積立てられた道徳上の預金が返還されるかという質問が提起され、死ぬ人間は魂を待たないとされるのである。業とは仏教システム上の意識であるが、その実際的な動きと存在については説明されないままである。ジョーンズは釈迦についてこう述べている:「しかし彼は、いかに彼の論理的、分析的な個所(とくに無我の教義)がそれを否定するように見えても、この世あるいはこれを超えるものにおける人生の感覚を支配する法則は超道徳的なものではないことを確信していたようだ(36)。」釈迦は道徳性を否定できなかったし、また同様にそれを彼の教義に同調させることもできなかった。しかし、これらの困難を差し置いても、厳格に言えば、我々は自分たちが本当にふさわしいものを求めているのか自分自身に問いかけるべきではないか?

 

この仕組みは、ちょうど出し入れが出来る預金のように善い行いは悪行を埋め合わせることができるように思われる。道徳性に適用されるこの種の理由づけは、法廷では採用されないであろう(裁判官は被告の悪行に対し、これまでの善行を斟酌して罪を許すことはない)。聖書の教えでは、倫理性は悪行を善行から差し引いたりまたその逆だったりと言うように、バランスをとれる預金口座のようなものではない。むしろ、人間関係に根ざした一連の義務である。両親が子供たちの世話をする義務があるように、子供たちには両親を尊敬する義務がある。夫と妻、友人たち、労働者と使用者など、すべての人間はお互いにある種の果たすべき義務を持っている。もし夫が妻をだまし、その後で素晴らしいプレゼントをしたとしたら、彼はそれで済んでしまうものだろうか?彼の裏切り行為は、まるでビジネス上のことのように修復されてしまうのだろうか?お互いの関係における許しあいはあっても、道徳というものは銀行預金のように取り扱われてしまう非人間的な公式ではない。同様に、ある人間が殺人の判決を受け、彼が殺した隣人の未亡人に自分の一生をかけた蓄えを差し出すと裁判官に申し立てたとしても、判事が殺人の処罰を中止するであろうか?彼は(自分が殺した)隣人を愛すべき義務を破ったのである。その人物がいかに多くの善行をなしたとしても、殺人の罪は罰せられなければならない。

 

これとは反対に、もしある人間が高潔に暮らしその土地の法を守っておれば、統治者はその善行に対して報償を与えるだろうか? その人物は単に務めを遂行するだけであり、行政が感謝の気持ちを表したいと思っても、ただその人物はなすべきことを実行していると見るだけであろう。それによって報奨を得ると言うことはない。違法行為は我々に大きな影響を与えるが、善行というものはただ期待されるのみである。ある人が100の善行を行い、一つだけ悪事を働いたとしても、彼らは100回自らの義務を果たし1回違反をしたと記録される。ある使用者が従業員に100回給料を支払ったが、すでに100回の支払いで彼らは利益を得たからと言う理由で支払いをしない場合、我々はこれをどう考えたらいいか?或いは、うっかりした生徒に対して怒りっぽい教師が100回怒りを抑えたが、その後カッとなって生徒の一人に蹴りを入れたとしたら?そのことは教師が“99点”をとること(100の善行マイナス悪行1)になるのか?その教師は、100回義務を果たし、1回の違反をしたことが記録されるのである。

 

人々は自分になされた悪事を許すように求められている。それは多分これらの悪事がなされるのとは違う場所であろうが、人々は自分自身が違反のリストを持っているからである:「もしあなたがたが人々の(もろもろの)過ちを赦すのであれば、天のあなたがたの父も、そのあなたがたを赦してくださるであろう。しかし、もしあなたがたが人々を赦さないならば、あなたがたの父もあなたがたの(もろもろの)過ちを赦してくださらないであろう(マタイ伝6:14‐15)。他方、神は許しを“義務づけられる”ものではない。神は罪とは無縁だからである。同様に、法廷における裁判官も、罪が無くもないが、罪を許す義務は持たないのである。

 

聖書の教えによれば、“善い”行いだけを我々に求められているわけではない。我々のなすべきことは最善を尽くすことである:「というのも、あなたがたを愛してくれる者たちを愛したとて、あなたがたは何の報いを受けるというのか。徴税人たちでも同じことをしているではないか。また、あなたがたの兄弟たちだけに挨拶したとて、あなたがたは何の優れたことをしているというのか。異邦人たちでも同じことをしているではないか。だから、あなたがたは全き者となれ。あなたがたの天の父が全き者であるように(マタイ伝5:46‐48)。もしある人が残酷な罪を積み重ねて悲惨な人生を送ったが、更生してその後の人生を真っ直ぐな市民として生きたとすれば、それで過去は埋め合わせられただろうか?更生した人生は当然なすべきことであり、それ以前の罪の記録はなお残っている。同様に、罪はその贖いの時が過ぎれば、それで罪が消え去るものではない。彼らには最大の努力がずっと求められるからである。罪は人の生涯を通じて積み重ねられつづけ、そのリストには、我々に対する他人の罪を許さない罪も含まれているのである。

 

聖書のシステムは全く個人的なものである。善悪のモラルは単なる“点”として関係づけて切り離すことはできない。倫理に背くことは、ただ悪い選択をするか悪い点を積み重ねるということではない。それらには、すべて関連性がある。聖書の規定は、二つの指示に要約される-----すなわち人を愛し、神を愛せよ。倫理を拒否することはある人物~この世を創り出した神を裏切ることである。求められる義務を認識することは、我々の関係する立場を変えることである:「かくして律法は、キリストへと至る私たちの養育係となっているのである。それは私たちが信仰によって義とされるためである(ガラテア人への手紙3:24)」。まず法律があって、そして罪の拡大が理解できるのである。その理解があって、我々の罪のために十字架の上で清らかに死んだキリストの愛が理解できるのである。その理解があって、イエスキリストへの帰依となる。かくて、かつては“義務”であったものが喜んでなすものになるのである:「もう私はあなたがたを僕(しもべ)とは言わない。僕にはその主人が何をしているかわからないからである。私はあなたがたを友と言ってきた。私の父から聞いた事をすべてあなたがたに知らせたからである(ヨハネ伝15:15)」。

 

他方、道徳性を信じながらも道徳性の関連する面を認めないことは、大洋を横断する船の旅を断り、信じられないほどの距離を泳いで渡ろうというようなものである。聖書は自分の力だけを頼り、神に頼らないが故に呪われた人をこのように述べている:「なぜならば、それらを行なうようにと律法の書に書かれているすべてのことがらのうちに留まらない者は、すべて呪われている、と書かれているからである(ガラテア人への手紙3:10)」。我々の信仰がキリストにあるかぎり、我々に対する罪は十字架に釘付けされているのだ。

 

人々にとって、彼らの悪事の泥沼から自力のみで這い上がることは望めないことである。

ただ、すべての人に希望はある。神の許しは、得られるものでも要求できるものでもなく、自分ではなく神を信じて自らの罪の深さを理解し悔い改めるすべての人々に対する、慈愛に満ちた無料の贈り物である:「事実、あなたがたは信仰を通して、この恵みにより救われている。そしてこれはあなたがた(自身)に由来するものではなく、神の(無償の)贈り物である。行いに由来するものではない。誰も誇ることにないようにするためである(エフェソ人への手紙2:8‐9)」。

 

女性

パーリ聖典によれば、誰もが一度は女性に生まれ次は男性に生まれ変わることができると言われる。しかし、ジャータカ物語500余話の人生(釈迦の網羅的人生リストではないが)やパーリ聖典のどこにも釈迦が女性として現れたことはない(時には、一時的に女性であったとも考えられるが)。ジョーンズはこう述べている:「もっとも印象的な一つの事実は、菩薩は実に様々な形に身を変えたが、彼は一度も女性やメス動物として現れることはない。彼が木の精や妖精として現れたときでさえ、彼はいつも男性である。何度もいろいろ変わった人生で顔を出す彼の親友アーナンダは一回だけ女性として現れている(ジョーンズ113)。さらに、ジョーンズは本生話の教えと正統派のそれを概ね次のように比較している:

「しかし、邪まな女性が不純な影響を及ぼすことが本生話の規範となっており、道徳的な女性は宗規を守るだけの例外とされているが、友人に悪い影響を及ぼす可能性は余りにも少ないので言及されていない。これは正統派の立場とは異なるものである。そこで疑いもなくセックスと結婚は悪であるが、愛と友情はこれが人間的な愛情と苦痛(又は潜在的な苦痛)の感情を持つが故に悪とされる。正統派が祝福できる唯一の愛は、公平で一般的なもの、つまり無限の“すべての生き物に対する博愛心”である」(115)。

 これらの高潔な女性たちの一人に触れながら、ジョーンズはこう述べている:「本生話のなかでは珍しいことながら、一人の高潔な女性がいたが、それは前世で男として得た徳によるものである!(43)。パーリ聖典自体、その中で女性が立派に表現されていることは稀である-----女性は性的な交わりと出産に飽くことがなく(本生話172)、彼女たちは統制が利かず、人を妬み、貪欲で、知恵が足りないので、法廷に出るとか、仕事に就くことはできない(本生話92‐f )」(ジョーンズ78)。尼僧に対する規律の制定に関連して、ジョーンズはこう述べている:「アーナンダが釈迦に女性に対する規律を分離するよう説き伏せたとき、彼はこのことについて大変憂鬱そうだったと報告されている。彼はこう言った----佛教真理の中身が純粋な形式の中に保たれるには、かなりの時間がかかるだろう(ジョーンズ77;本生話Ⅴ184f)。規律集Ⅴの中で、アーナンダに問いかけながら、釈迦によって同じような予言がなされている:

「アーナンダよ、もし女性たちが真実の発見者によって宣言された教えと規律について道を外れることがなければ、バラモンたちの修行は永続し、仏教の真理は数千年長続きするであろう。しかし、アーナンダよ、女性たちは真実の発見者によって宣言された教えと規律から道を外れたので、いまやアーナンダよ、バラモンの修行は永続せず、仏教の真理は500年しか持ちこたえられないであろう」(356)。

 女性たちは“道を外れ”、すでに500年がすでに経過したので、次の疑問が発生してくる-----すなわち“真実の教え”は500年しか耐えられないというこの教典上の言葉は、偽りのものか真実かということである。もし我々がそれは偽りであると言えば、パーリ聖典の中に誤りがあることになる。もし我々がそれは真実であると言った場合でも、それは間違いである。すでに500年が経過し、“まことの教理”は、このように広まってはいない。この同じ経典の中で釈迦は女性に関する影響力を「べと病」と比較している。:「アーナンダよ、べと病と言われる病気がすべての稲田を襲つたとき、稲田は生き延びることはできなくなる-----女性たちは、真実の発見者によって示された佛教の真理と規律の道から外れたから、バラモンたちの修行も続かず、佛教の真の理法は500年しかもたないであろう(356)。」同様に、同じ経典(規律集Ⅴ)の中に、女性の参加を認める8つの条件が述べられている。それらの中に次のような二つの事例があるが、これらは仏教における女性の男性従属の役割をきわ出させている:

「100年(も)の間、聖職を授けられた尼僧は、銘銘に挨拶をし、席を立ち、合掌して敬礼し、ちょうどその日に任命された男僧にも敬意を表さなければならない。そしてこの規則は尊ばれ、崇拝され、あがめられ、敬まわれ、一生を通じて破られてはならない(354)。今日から尼僧による男僧の教戒は禁止され、男僧による尼僧の教戒は禁止されない。この規則は尊ばれ、崇拝され、あがめられ、敬まわれ、一生を通じて破られてはならない」(355)。

 

 この基本的な姿勢を練り上げて、チベット仏教はさらにこれを極端に拡大した。トリモンデイ夫妻はその著書「ダライラマの影:チベット仏教における性愛、魔術および政略」の中で男性優位の論題について816ページ(ドイツ語)の大部分を費やしている。論題の複雑さを明らかにするため、我々は演繹的に考えを進め、仮説の形で研究の中心的な記述について、書物全体の序文を作ることにした。従って、読者はこれに続く研究によってのみ明らかとなるその記述が正しいか誤っているか、自らの方法で判断してほしい。この仮説の構成はやむを得ず着手段階では抽象的なものになっている。我々の研究行程の中だけであるが、それは血と生命、そして不幸なことに暴力と死の表現で記述されることになった。チベット仏教の神秘的なところは、普遍的な男性中心の力を得るための女性犠牲主義と、性愛の扱いである(この本は最近、英語の本としては入手できないが、ドイツ語の全文英訳はウエブサイトで見ることができる:https://www.trimondi.de/SDLE/Contents.htm)。

 

 南方仏教に立ち返ってみれば、ジョーンズは女性について、本生話とパーリ聖典に出てくる各場面の陰に隠れた、教義上の体操(知的訓練)を説明している:

「なぜ、正常な性に対して攻撃がなされるのか?私は本生話61が最も信頼できる解答の手掛かりを与えていると確信する。この物語は主として、若い男たちが家庭生活や性的な関わりについて失望するように作られている。以上見てきた通り、家庭生活のもつれから逃れる教義上の理由は、それらが“自己”の幻想と他の“自分自身”(係累)への愛着を深める“足かせ”であり、無我の関連を絶つことでのみ真の自由を見つけることができるからである。我々はまた、本生話がしきりと、この世は同じ人間がある人生から次の人生へと移動するという彼らの前提を覆すものとして、無我の教義を避けるのを見てきた。このように、本生話の立場では無我の教義を避ける必要性があるために、女性たちは大きな犠牲を払っているのである。生贄となるなかで、彼女たちは自己の尊厳を得ることが困難であることを理解しなければならなかった。本生話で育った南方仏教の女性たちは、彼女たちに対して特定の目が出るようにダイス(サイコロ)が細工されたことに気がつかなければならない----ちょうど、とても難しいことではあるが、彼の結婚がうまくいくように願う平信徒さながらに」(99)。 

しかし、仏教に背くことなく、仏教界の多くの女性たちは前世から定められた業によりそれにふさわしいものとして自分の低い地位を受け入れている。クレオ・オザーはその著書「仏教と中絶」の中で次のように述べている:「典型的に、タイの女性たちは男性に対して低く評価されている。仏教信仰によって支えられた状況は------(33)。そして、バンコクのスラム街の女性を研究調査する中で、「大抵の場合、女性たちは“悪い業をもっているか、或いは良いことに恵まれない女”として生まれたという仏教徒信仰によって、自分たちの運命を受け入れていることが分かった(35)。」

 

聖書の中では、女性たちは“べと病”のように見られることはなく、仕事に就けなかったり、若い男よりも低い地位に置かれたり、男が名誉を傷つけられる理由にされたり、直面する不幸は致し方ないとされるようなことはない。女性と男性は聖書の中では異なる役割と責任を持つとされているが、神を信じる者にとっての恵みは経済的に平等である:

「実際キリストへの洗礼を受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。(もはや)ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男性も女性もない。まさに、あなたがたすべては、キリスト.イエスにおいて一人なのだからである。そして、もしもあなたがたがキリストのものであるなら、それゆえにあなたがたはアブラハムの子孫なのであり、約束による相続人なのである(ガラテア人への手紙3:27‐29)。キング・ルミエルの母によって書かれた箴言集31の中では、高潔な女性は仕事のやり方で賢明であると賞賛され、しっかりと誇り高く衣服をまとい、賢い言葉を発し、夫から信頼されると書かれている。

瞑想(座禅)

仏教徒の瞑想(座禅)は、よく中立的なものとして表現される-----“宗教的な”行動というよりは単なる瞑想として。それぞれ異なる世界観の背景を持つ人々は、ちょうど身体運動が肉体の訓練であるように、それがまさに一種の精神訓練であると考えて自ら進んでそれを試そうとする。これは、仏教の教えを得ようなどとは思わずに、何か独特の、穏やかで、意味深い経験を持ちたいと願う人々には魅力的なものである。しかし、実際において、瞑想というものは中立のものであろうか?

 

パーリ聖典のなかに、瞑想の時間が混乱したという珍しい話が述べられている:

「実は“無類の人類の御者”としての釈迦の名声を損なう一つの事件があったが、それは作り話とは考えられない。私はこれまで、釈迦に関する本のどこにもこのことについての記述を読んだことはない。一族の発言集V284に、彼が14日間の静修会に入ったとき、瞑想のテーマとして“いやな人物”を推薦したということが述べられている。彼が帰ってきたとき、残念ながらその“指示”は姿を消してしまっていた。その理由は、多くの僧侶たちが“いやなヤツ”を自ら黙想することは、それに煩わされ、それを恥じ、それを呪い、それらを殺す武器が欲しくなり-----そして、実際自殺を図った者がいたからである。アーナンダは、釈迦がいつか違った瞑想のやり方を教えて下さるだろうと示唆した。ゴータマはこの示唆に応え、門弟たちに“将来、瞑想については呼吸に基礎を置くように”と教えた(ジョーンズ-76)」。

 今日においては、さらに呼吸に集中する基本的な瞑想タイプがずっと一般的であるが、不快なもの(たとえば人の死体)は、仏教の瞑想の対象として依然ふさわしいものとされる。この正統派の教えは、彼らが全能である釈迦の存在(他の正統的な教えで主張されている)について疑いを招く。彼は、門弟が自殺を企てるのを知りながら、このようなきびしい形の瞑想を命じたのか、或いはこんなことは全く知らずして、全能の存在ではなかったのか?(後者の観方は今日までずっと一般的に支持されている)。

 

 人の呼吸に集中したり(思念を観察する中で“我”と“客観性”の観念から解放されて)あたかもそれは自分自身のものではないかのように人の考えを見つめような、一段と基本的な瞑想の中にも危険がひそんでいる。

 

 それでもなお、ラーフラはこのような瞑想に味方している:「科学者が何かの対象物を観察するように、主観的な反発をせずに、それを外部から観察しているように試みたらいい。ここでもまた、主観的に“私の感じ”や“感覚”で見るのではなく、客観的に“感じ”や“感覚”で観察するのである。“自分”の誤った観念を忘れなければならない(73)。“呼吸における瞑想”について述べるこの章の中で、パラヴァヘラ・ヴァヒラナナはヴィパッサナ瞑想を呼吸に関連させている。 

「洞察力を得たときに、彼は息を吐き息を止める。一時的なものを沈思することによって永遠の観念から自由となり、苦痛を沈思することで幸福の観念から、非エゴの沈思によって自己の観念から、嫌悪の沈思によって喜びの観念から、無関心の観念の沈思によって情熱の観念から、停止の沈思によって創造の観念から、断念の沈思によって執着の観念から、それぞれ逃れることができる」(255)。

 また、呼吸式瞑想に関連して、ヴァヒラナナはこう述べている:「かくて、この二つの段階で呼吸作用の身体的要素は完全に鎮静化されると言われる。これは、“彼は息を吐き息を吸うということに意識を集中する”という状態に到達するという観方である(243)。この場合、呼吸の目的は呼吸することではない!脚注の中で、またヴィスデイマッガ283に拠ってヴァヒラナナはこう指摘している「呼吸がなされない8つの状態がある:母の子宮内、水に溺れたとき、意識を失った者、死者、第4番目の恍惚、無意識界、無形界、すべての感情・感覚の停止達成状態(243)である。アーネスト・ヴァレーは彼のウエブサイトでヴィパッサナ瞑想について更なる危険性を指摘している:

「精神状態についての仏教徒の熟考にともなう経験は、人の感覚と心の異常な働きの負担によって惹き起された環境の現実性を誤認すること、と説明できる:

「瞑想者が彼ら自身の心の中を注目するとき、自身をコントロールしようとせずに受身でいれば、これらはさらに急速に予測できない形で揺れ動く。しばらくして、この混乱した心の動きは強烈な印象をもたらし、心の中の出来事が瞑想者自身の心というよりはむしろ他の違ったところから、突然活動を始め出す。瞑想者が自らの実験に固執するとき、彼らはまた観察される出来事と観察を行う心が明確に分け隔てられていることに気づく。瞑想がさらに深く進行するにつけ、まるでそれらは観察者のことではないかのように、心の出来事と観察する人は異様で非人間的なものに見え始める。この瞑想者の“我”の感覚がさらに混乱を招き、弱められた時点では、ついにぱったりと消えてしまう。(Eヒルストロム 心のテストIVP1995,p.114-115)」。

(www.comparativereligion.com/Buddhism.html)

また、ある人物が“第三者”観察者となり「我」の観念を認めないときは、それはまるで車のハンドルから手を放して助手席に座ってしまうようなものである。このことは、もしそれが“単なる”ごまかしであっても、外部の魂が人に入りこんできて非常にハッキリした危険な影響を及ぼす可能性を示している。なぜ、人はより高い真実を得るために意識を変えなければならないのか?もし売家の価格を評価する前に、不動産業者が我々に気持ちを変える薬を飲まなければならないと言ったとしたら、これを疑わずにおられようか?

 

 正当派の教義によれば、瞑想の最終目標は涅槃----個人の滅失をもって災いから逃れることである。基礎段階で瞑想を試みる多くの人々は、これを最終目標とは思わない。彼らの目標は恐らく内心の平和,健全な精神または何か他で得られない独特の経験であろう。涅槃を目標として瞑想の道を歩めば歩むほど、人の気持ちは引き離され、精神的なハンセン病患者となる。身体的なハンセン病患者は触感を失った人である(それは熱いストーブからとっさに離れようとはせず、むしろ凭れかかってしまう時のような危なさである)。完全に感情を失った人は精神的な病人となり、一見全く正常に見えるかもしれないが、彼らは必要な警告を与え健全な機能を持つ感情に気づかないのである。

 

 瞑想の途中で無上の喜びや超常能力さえも得ることができると言われるが、正統派の教えに従えば、最終的な目的----完全な停止状態(涅槃)から引き離すものとして拒絶されよう。かくて、瞑想の“前向きな経験”は死の“鉤”へと導く“餌”でしかない。最高レベルの瞑想(ニロダ-サマパッテイ)に関して言えば、ヴァヒラナナはこう述べている。「しかし、最高の瞑想状態で経験されたものは涅槃であり、すなわちすべての精神活動の停止を意味し最終の涅槃と比較することができる。最終の涅槃は“クハンドラ・パーリ・ニッバーナ”と呼ばれ、五蘊の完全な停止であり、聖人が死の時に達成するものである(467)。

 

 個人レベルにおける瞑想の危険性を別にしても、瞑想はそれが求める標準的な目標を与えてはくれない。仏教の主張は経験的であると言われることから、瞑想は時として科学的であるとされている。しかし前に述べた通り、瞑想者は自らの経験に期待するものについて、前もって指導を受けるのである。この期待は、自分がどんなことを成し遂げたいかを人々に条件付けてしまうので、その客観性を奪ってしまう。もし指導者が前世を見たいかと言えば、彼らはすでにそれについて予めその気にさせていることになる。パーリ聖典のなかには“間違った”または異端の観念が述べられているので、それは客観性を持たない。言葉を変えれば、もしある人が瞑想をし、何か異端の経験―例えば“私は確かに永遠の魂を持っている”というようなことを言えば、彼は拒絶されてしまうであろう。

 

 仏教徒の瞑想はもともと関係のある人々を捕らえ、彼らの心をまるで機械のようにしてしまう。瞑想者が“すべての存在に思いやりを広げている”ときでさえ、その焦点はこの挑戦に対して心を向ける能力に絞られ、その思いやりは引き離されたものとされる。瞑想がある一つのものに絞られすべての思考を排除したとき、それは神との関わりを呼びかける意識を沈黙させ、心をさらに引き離し孤独へと向かう道に導くのである。“自ら閉じこもる者は自分の欲望を追及する。どんなに賢い意見とも衝突する”(箴言集18章1)。孤立の中で個人的な願望は叶えられるであろうが、この状況は、美味しい食事と友情をもたらす両親の世話を拒絶し、食事、衣服、教育の申し込みなどを拒絶しながら森で暮らしたいという子供に喩えられよう。このような子供は生き延びることは難しいだろうし、結局は両親と付き合う能力さえもなくしてしまうであろう。聖書における瞑想は、神とともに時を過ごしながら神の摂理と特性について考えることを意味している。それは、(神の)子供たちを“育て”、人生の重荷を取り去り、知恵を授け、心を通わせる神につながる道である。

 

科学

 これは、釈迦牟尼が全知全能であるとの主張(すなわち彼に代わってパーリ聖典が主張するもの)に光を与えようとするものである。事実を述べた書として、パーリ聖典はどの程度信用できるものなのか?もし釈迦牟尼がこれらの書き物に直接、間接に息を吹きこまなければ、真実が測定される基準はどこにあるのだろうか?そして、もしパーリ聖典が釈迦によって息を吹きこまれたと主張された場合、なぜそれはこんなに多くの事実誤認をしているのだろうか?もしパーリ聖典が真理と誤謬と混合物だとしたら、自分の運命を彼の教えに委ねることは良薬と有害な薬を処方する医者を信じるようなもので、正にギャンブルである。ここにある科学部門の引用はパーリ聖典からのものであり、その評釈ではない。

 

 釈迦との対話Ⅲ;137‐139のなかで、釈迦がこの世の支配者となるとみなされた人物について述べた32の特徴がある。これらの特性の中で彼は40本の歯を持っていなければならないとした[なんと子供として!このような評価がなされた時点で(釈迦との対話集Ⅲ;pp13‐18)]。通常の子供たちの歯はその半分~20本でしかない。成人場合は、全部で32本(彼らがホッケーをやり過ぎないと仮定して)、4本の親知らずを抜いたとして28本である。大人のあごに余分な歯を8本はめ込むのは正に妙技と言えようが、幼児のあごに20本の歯をはめ込むというのは、あごにとっても信用性にとっても誇張としかいいようがない。

 

 32の特性の中のもう一つは、潜在的な世界の支配者である釈迦は長い舌を持っていたらしいということである。では、どの程度の大きさか?MLSⅡ.のなかに、セーラと呼ばれたバラモン僧が釈迦に会いに来て、彼の上に32の特性を探した話がある-----「そのとき、王は自分の舌を突き出して両耳を前後方に撫で回し、それからその舌で鼻孔を前後方に撫で回し、そして彼の額のすべての部分を覆った(335)。」ビックリである。さまざまな表情と姿勢をもった釈迦の彫刻があるが、私はさまざまな姿勢のなかでこのような彼の人体組織面の呼び物を見たことはない。しかもこれは正統派の記述なのである。

 

地震の原因に関するアーナンダの質問(緩やかな発言集Ⅳ;pp.208‐210)に答えて、釈迦は8つの原因を挙げている。第一は地球の構造に関するごく自然な説明だが、続く7つの理由のなかで釈迦はさまざまな“悟りを得た者”が記念となる成就を遂げたときに、大地が地震となって反応すると言っている。地震に対する第一の理由のなかで、地球の構造と地震の原因に関する彼の説と、現代科学の知識の間にはいくつかのハッキリした相違を認めることができた:「従って、アーナンダよ、この大地は水の上にあり、水は風の上にあり、風は宇宙のなかに存在する。大きな風が吹けば、水を起こし、水の震動が大地を揺るがすこととなる。アーナンダよ、これが大地震が現れる最初の原因であり、第一の理由だ。」

 

この事例と、以下のいくつかの事例は“物事の実相”(釈迦が与えると主張する洞察力)との関連性があまりない。これらは奇蹟の事例ではなく、それを是とするか非とするかの証拠によって個人サイドで確かめるべきものであろう。むしろそれらは、“真実性の主張”の例であり、現代の、また我々の世界の論議を呼ばない知識に対して試されるべきである(例えば、大陸の配置、最も高い山の高さ、太洋のサイズなど)。

 

釈迦の対話Ⅲ.のなかに、8万年を生きた人類の祖先の記述があるが、徐々にさまざまな悪行を経て彼らの寿命はたった10年にまで短縮された。その当時はこれらの人類は5歳で結婚し、少なくとも9歳かそれ以前に妊娠したであろうと推定されている(すでに9歳で老化は始まっているので)。これらは、この経典に於いてハッキリと人類について書かれたもので、猿についてではない。そして、道徳的な生き物が増えるにつれ、人間は再び寿命が長くなったと言われている。もしこの物語が寓話であれば、なぜこの経典はこの歴史/預言書の場所としてよく知られた(実在の)都市について述べているのだろうか?:「これらの人間のなかに我々のバネラスはケツマテイと名づけられるだろう-----(73)。」また、それが寓話であれば、未来の人間の寿命が8万年にまで戻ったときに現れるとされるメテヤ仏陀の予言もそうだということになる。

 

 “誤ることのない”(釈迦との対話集111.25)人物の口から出てくる他の“真実性の主張”のなかで、釈迦は太洋のなかに魚がいるが、それは100~500ヨジャナスの長さを持つと言っている:

「そしてまた、僧たちよ、太洋は偉大な存在の住まいであり、それらはそこにいる:テイミス、テイミンガラス、テイミテインガラス、アスラス、ナガス、ガンタアバスである。太洋には100、200、300、400、500ヨジャナス(長さ)の個体がいるのだ(規律集Ⅴ333)。」 

パーリ協会の辞書によれば、1ヨジャナスは7マイルに相当する。と言うことは、500ヨジャナスの魚は3500マイルの長さとなる。この距離がアメリカ合衆国の距離(西から東まで)よりも約700マイルほど長いことを考えれば、これは途方もない話である。また地球の大洋の深い部分は約7マイルで平均の深さは約3マイルであることから、これは全く釣り合いがとれない魚と言うことになる。

 

 精神的或いは身体的な領域で、それは“まるで~のように”と表現される超自然的な主張をする人に対しては、彼が身体的症状を診断し適切な治療法を処方できるかと質問してもあまり行き過ぎではないようだ。規律集の4巻目に釈迦の知識が現代の基準に合致せず、全知全能論の域を出ていないことを明らかにする物語がたくさんある。その一例として、釈迦は豚の生肉を食べ、生き血を吸ったとことを証明している:

「そのとき、ある僧侶が人間とは思えない苦痛に襲われた。教師と訓戒者らは看病したが、回復させることはできなかった。釈迦は豚の屠殺場に行き、生肉を食べ、生き血を吸ったところ、僧の非人間的な苦痛は治まった。彼らがこれを王に報告したとき、彼は言った:“僧たちよ、私はある者が人間ばなれした苦痛を得たときには、生肉と生き血を施そう” 」(274)。

ここに言う“非人間的な苦痛”とは、この行についての脚注が指摘する通り、悪魔の所有物を意味している。釈迦によって証明された治療法は、非人間的な精神(悪魔)がそれ自体生肉と生き血へと誘うものである。この方法が実際、賢い対処方法と言える病気と言うものがあるだろうか?なぜ釈迦は、イエスキリストがしばしば行ったように、このような邪まな苦痛を追い払わなかったのであろうか?その癒しが“直ちに”という言葉を用いて表現されたイエスキリストの奉仕に対するもう一つの対照的なこととして、釈迦はさまざまな治療法を施しそれらは“彼はあまり成功しなかった”(278~279)という言葉でしばしば表現されている。以下の事例は釈迦の治療が適切さを欠いていた事を示す他の一節である:

「“僧たちよ、痛みを抑えるためには布を巻けばよい。” 痛みはかゆくなった。“僧たちよ、それには辛子粉を吹きつければよい”。 痛みはただれてきた。“僧たちよ、それを燻蒸すればよい” 肉の痛みは続いた。“僧たちよ、塩の結晶で取り去ればよい”。痛みが癒されることはなかった」(279)。

 誰かがその身体の状態について全く分からないでいるときに、なぜ我々はさらに重く、永遠に重要な精神的な本質について彼に信をおくべきなのか?

 

 最後に、進化の理論が仏教にかなり近い(創造主は不要)からといって、このことが仏教は科学的であることを意味するのであろうか?まず第一に、仏教は究極の人類の起源を説明せず、起源を探究することは人生における無駄な努力だと言っている(このような推論が涅槃につながることはないから)。しかし同時に、もし造物主がいなければ、いかにして我々はこの世界が道徳的な又は業の正義をもつことができようか。またすべてのものが乱雑に、突然な形で、人間個人に関係のない機会を通じて現れるとしたら、どこに美というものを期待できるというのであろうか?進化論と仏教とのつながりがないことは別にして、さらに基本的な問題がある---進化は依然として理論であり、ダーウインによる“発見”からこれまでの経過のなかで進化についての説明は増えず、減っているのである。例えば、人間に至るまでの有名な一連の猿たちは、(研究の結果、)それがいたずらだったり、完全な猿だったり、完全な人間だったりしている。失われた輪は依然失われたままである。Ph.D.進化科学者団によるウエブサイトwww.answersingenesisorgは、記事、オーデイオ、ビデオによってこの世の創造主を支持する証拠を提供している。進化論の考え方で名を高めた誰かにとって、造物主は“非科学的”のように思えるだろうが、そこには証拠がある。正当な実験なくしてこの証拠を消し去ることは、そのこと自体、非科学的である。それは我々の時代の意見であり、人生における道徳優先の考えに同意して我々は何かを受け入れるべきはないか?反対する人は、それがたとえ神への道を意味したとしても、それが導く証拠には従うことになろう。

 

 ジャータカ物語(543)の中で、創造主に関連して質問がなされている:「なぜ、彼の創造物(人間)はすべて苦痛を背負っているのか?なぜ、彼はすべての者に幸福を与えようとしないのか?(ジョーンズ144)。」仏教における無神論と自己努力に関する要請は、人類に対して彼ら自身の支配に裁きを委ねることを主張する。現世において明らかな苦痛はしばしば、愛に満ちた力強い「神」を拒絶したことことがその理由とされる。聖書のヨブ記はこの世の明らかな不正に関する問題点を述べている。人々は自らの環境について判断を加えながら、状況について知り得るすべてを知ろうとする。ヨブもこれと同じような不満を抱いた。彼の判断では自分の直面するものの中にいかなる正しいものも発見できなかったからである。これに対する反論として、神はヨブに対して次の四章(ヨブ記38-41)について質問をしたが、それはヨブにとって自分の知識が実際、如何に限られたものであったかを思い知らせるものだった。神の審判の席に就くと言うことは、我々の限られた観方に基づいて何が正しいかを知ろうと考えることである。このような人間が、創造主(神)が未だ考えつかなかったどんな知識を持つというのであろうか?

 

この世の虚しさは我々が自らの問題を解決できると考えるよりも、むしろ救いとあがないを求めて我々を神に向わせる。キリストは門弟たちに神の前において謙虚でであれと教えた;そこで彼は一人の子供を呼び寄せ、その子を彼らの中に立たせた。そして言った「アーメン、私はあなたがたに言う、もし心を翻さず、子供のようにならないのであれば、あなたがたは決して天の王国に入ることはない(マタイ伝18:2‐3)。我々がよくこの世で見るのは不公正なものである------邪しまな繁栄、“無実な者”が直面する災難など。しかし、我々は永遠なるものの考えを知る必要がある、そしてそのなかには神がこの世の正義を判定する審判の日が含まれている。仏教に於いては、神の存在に関する質問は空虚な哲学的な推測の範疇のなかに置かれている------この問いかけは、人々が「涅槃」を通じて苦痛から逃れる手助けとはならないであろう。幸いにして、神を知ることが我々を涅槃(無我)に導くことはない。同様に、釈迦の教えが全知全能でないことを考えると、何が追求に値し何が値しないかという彼の論証を信じることは到底勧められないのである。もし我々の家における家庭用品が正しく動かないとしたら、我々は所有者のマニュアルをめくるかその用品のメーカーを呼び出すだろう。全く同様に、我々の創造主「神」は人生の矛盾に対する解答を持っているのである。

結び

 このように仏教を概観するとき、もし仏教が旅であるとすれば、その旅は偽りの教えを持つロ-ドマップに偽りのことが書かれ、この旅の“発見”は何らの手助けを与えることもなく、最後には、人々は目的地に到達したとき死んでしまうことになるであろう。仏教は魅力的に構成されているが、それは人々を愛する神から遠ざけ、汚れなき永遠の生命から遠ざけるものである。そして、このようにして、我々がこの世に造り出されたもの----罪を許され神につながる生命----また“自ら得た”ものではなく十字架の上で我々の罪を背負って処刑されたイエスキリストによって可能となったものから我々を遠ざけるのである。このことを拒否することは、天国へと至る真実の道路地図や旅への手助けさらには我々を失敗させないガイドをも拒否することである。このことを認識し受け入れることが、我々の創造主を信じる道を始めることである。「つまり神はひとり子を与えるほど世を愛したのである。彼を信じている人が一人も滅びることなく、永遠の生命を持ち続けるためである。つまり、神が子を遣わしたのは、世を裁くためではなく、世が彼を通して救われるためなのである。彼を信じている人は裁かれない。だが、信じようとしない人はすでに裁かれている。神のひとり子の名を信じていないからである(ヨハネ伝3:16‐18)」。  (日本語訳 外本唯幸 2005.2.6)    完

 

仏教徒の道しるべ  スコット・ノーブル

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(2004年11月6日)