Welcome to Moriel Ministries...

Moriel is an international multi-faceted ministry of Jewish and non-Jewish regenerate believers one in Jesus the Messiah and is committed to the evangelization beginning with the Jews and also people of other faiths including Islam, Hinduism, Buddhism, and theologically deviant expressions of Christendom including Roman Catholicism (which we view as aberrational much as we deem Talmudic Judaism to be likewise largely unscriptural).

Midrash Garden 2 - Japanese

ミドラッシュ 園の中のイエス(2)

ジェイコブ・プラッシュ

反キリストも同じことをします。彼は貧しい人を気遣っているように装い、素晴らしい人道主義者だと思わせるのです。もし、あなたがマザー・テレサ――偉大な神の聖徒――についての、真実を言おうとするなら、ほとんどのクリスチャンが怒り出すでしょう。あなたはただ、引用するだけであるかもしれないのですが、彼らにとっては非の打ちどころのない人なのです。しかし反キリストと比べたら、マザー・テレサでさえイゼベルほど悪そうに見えることでしょう。

もう一度、ゲツセマネでは、欺く者としてのサタンがいます。その他にだれがいるのでしょうか?共観福音書をさっと見てみましょう。マルコ14章51節、『ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕らえようとした。』彼らがイエスを捕らえようとした時、裸で逃げた男がいます。彼は迫害の時に信仰を失ってしまう人々の象徴です。彼らは自分のいのちを救うために、救いの衣を着ずに逃げ去ってしまうのです。またそのとき、大ぜいの人がつまずきます。

迫害に関して問題なのは、迫害される必要の無い者が初めに、最も酷く受けるということです。しかし、他の人はそれが来たときには、背教してしまいます。

イエスが『人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。』(マタイ 24:10)と言ったことを思い出してください。明日にでもつまずき、あなたを裏切るクリスチャンとは、今日ベニー・ヒン(Benny Hinn)、コープランド (Copeland)やヘーゲン (Hagen)に聞き従っている者です。

また、登場人物に目を向けると、園には、神さま、サタン、裸の男がいます。『「だれを捜すのか。」と彼らに言われた。「それはわたしです。」』そしてもう一度、『「だれを捜すのか。」「ナザレ人イエスを。」「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。」』三回、イエスは「それはわたしだ」と言いました。『もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。』これは「集団共有」です。「集団共有(corporate

solidarity)」という言葉は神学用語で、多くの人のためにひとりの人が代表するときに用いられます。ヨハネの福音書ではこの集団共有が多く見られます。

それでは集団共有の例をふたつ示しましょう。バラバ(Bar Abbas)とはアラム語で「父

の子」という意味です。彼は今日のテロリストと同じような者でした。私はイギリスに住

んでいるので、IRA(アイルランド共和国軍)や UVF(民兵組織)がいる北アイルランドに頻繁に行きます。彼らはプロテスタントやカトリックのテロリストです。基本的には彼らは、政治的な宗教の名によって、組織的な犯罪のようなものを行っているギャングなのです。プロテスタントとカトリックの双方が行っています。彼らは基本的にはギャングであり、最も凶悪な種類の宗教的な偽善者なのです。バラバによく似ています。

「だれを望むのか?」ピラトは言いました。「このテロリストか、それともラビ・イェシュアか?」あなたがたはこの人殺しを望むか、それとも、少女にいのちを与えたラビを望むのか?目の見えない者の目を開き、足なえを歩かせ、耳の聞えない者の耳を開き、人々に愛、平安や真理を教えたこの者を?

「バラバだ」と彼らは言いました。バラバは私たちすべての状況です。正しくない者た ちのために正しい者が苦しんだのです。バラバ(Bar Abbas)は“父の子”という意味です。 私たちが御父の子どもとなるために、イエスは私たちの代わりに十字架に向かったのです。四福音書のすべてが法律の手続きをする法廷の中に、福音を位置しています。イエスは私 たちの身代わりに裁判にかけられました。バラバのためにです。四福音書すべてが、法廷 の中に福音を位置しています。御父を正しい裁判官として知らないかぎり、彼を愛の神と して知ることは出来ません。

今日、多くのクリスチャンがキリスト教を本来の“法律的な”背景から引き離そうとしています。“エマージング・チャーチ”の中にいる人たちは、キリストが私たちの罪の代価を支払ったということや、そのような用語には無縁です。その人たちは福音を贖いというより、ひとつの霊的探究として扱おうとしています。

もうひとつの集団共有は使徒のひとりに見出されます。私たちは英語においても、

「Doubting Thomas(疑い深い人)」という表現を持っています。トマスだけが疑ったのではありませんが、彼は「釘の跡を見なければ信じません」と言いました。ゼカリヤ12章

10節では、イエスが再臨した時、ユダヤ人が『自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ 見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。』とあります。これが不信仰なイスラエルが信じる時です。 彼らは釘の跡を見るからです。トマスは集団共有の一例です。彼は同胞のユダヤ人を表わ しています。

もうひとつの集団共有はこれです。「だれを捜すのか。」「イエスを」「それはわたしだ。この人たちを去らせなさい。」この人たちとは誰のことでしょうか?ペテロ、ヤコブやヨ

ハネは、あなたや私を表わしています。「だれを捜すのか」「イエスを」「それはわたしだ。

この人たちを去らせなさい」「それなら、ジェイコブ・プラッシュはどうなのですか?彼はコカインを売り、それで大学生活を支えていたじゃないですか?」「彼を去らせなさい。わたしを捜しているのでしょう。わたしを連れて行きなさい」「でも、彼はパトカーに火炎瓶を投げたような、キャンパスの過激派だったじゃありませんか?」「はい、わたしは彼がどのようであったか、何をしたかを知っています。わたしは彼をいちじくの木の下で見ました。彼を去らせなさい。」「同性愛者はどうなのですか?」「去らせなさい。わたしを捜しているのでしょう。わたしを連れて行きなさい。」「売春業者はどうなのですか?」「去らせなさい。わたしを捜しているのでしょう。」「売春婦はどうなのですか?」「去らせなさい。わたしを捜しているのでしょう。その人たちを去らせなさい」「去らせなさいだって?彼らは犯罪者じゃないですか!」「わたしは彼らを知っています。しかし、わたしを捜しているのでしょう。その人たちを去らせなさい。わたしを連れて行きなさい。そして、その人たちを去らせなさい」「あなたは誰ですか?」「わたしはあるという者だ。これが私の作った計画だ。わたしが園を歩いている者である。わたしがルールを定めた。そのルールによってすべてを行っているのだ。この人たちを去らせなさい。わたしを連れて行きなさい」

これが福音です。彼らは言った通りにしました。すべてが園で起こったのです。

園を続けて見てみましょう。ヨハネ19章を開いてください。もう一度、39節は園の場面です。『前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。』聖書の中で、没薬の使い方はひとつ、埋葬のために死体に塗ることです。イエスが誕生した時、黄金が贈られました。彼が王になるためです。乳香が贈られました。なぜなら、彼は祭司になられるからです。没薬も贈られました。なぜなら、彼が死ぬからです。スミルナにある教会にイエスが言ったことを思い出してください。「サタンはあなたがたを十日の間、牢に入れ、何人かを殺すでしょう」スミルナ(Smurna)とはギリシア語で没薬(smurna)から派生した名前です。

『そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料と いっしょに亜麻布で巻いた。イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、 まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。』創世記、またゲツセマネと同じく、 そこは園でなければなりませんでした。『イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。その日がユダヤ人の備え日 であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。』イエスは園の中に葬 られました。前日の土曜日、彼らはハ・シュル・ハシュリム(Ha Shir Hashirim)を読ん でいました。今日までシナゴーグ(会堂)では、そのハ・マヅォート(Ha Matzot)の土曜 日、過越しの週、雅歌(ソロモンの歌)として知られているメギラ(Megilla)が読まれま

す。雅歌4章6節を開いてください。多くの場合、福音書の出来事とイエスのいろいろな

話は、その週シナゴーグで朗読されていた箇所と直接関係があります。(例‥マタイ21章・25章、ヨハネ8章)

『そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、私は没薬の山、乳香の丘に行こう。』花婿は埋葬のために油塗られています。花嫁のために死ぬため、受け入れられる供え物をささげるためです。ソロモンのシュラムの女との恋愛は、キリストの教会との恋愛の比喩です。彼は埋葬のため、彼の花嫁のために死ぬため、油塗られているのです。これがシナゴーグで読まれていた箇所です。

雅歌の5章を見てみると、『私の妹、花嫁よ。私は、私の庭(園)に入り、没薬と香料を集め』とあります。別の言い方をするならば、「庭(園)に入って来なさい。庭に入ってきなさい」と言っているのです。これがその土曜日に、シナゴーグで読まれていた箇所です。

その次の日は、週の初めの日、日曜日でした。ヘブライ語ではヨム・リション( yom

Rishon)といいます。その日はユダヤのカレンダーでは、特別なヨム・リションでした。ヘブライ人の初穂の祭りだったのです。

1コリント15章20節を開いてください。ここは復活の章です。何と書いてあるでしょうか。『しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。』そうです、眠っているのです。『彼は、おまえの頭を踏み砕き、 [おまえは、ただ彼のかかとにかみつくだけだ。] 』眠っているのなら、いつか目を覚まします。いつも指摘してきたように、聖書では信者の「死」は死ではなく、眠りだと教えられています。ラザロは眠っていたとあります。少女もそうです。「タリタ クミ(Talitha Tekumi)」彼女は眠っていたのです。パウロは「眠った兄弟たちについて、深く悲しんではならない」と言っています。救われていない人たちは死にますが、信者は眠りにつくのです。これについては言うべきことがたくさんあります。聖書が、信者の「死」を眠りと表現するのには二つの理由があります。もちろん、一つ目は復活のためです。再び目を覚ますからです。眠りにおちた時、次に気付くのは自分が起きた時です。眠った信者たちはやがて復活の時に気付くのです。しかし、眠りにおちた時にはある事が起きます。意識が違う領域に入ってしまいます。そこでは起きている間に意味を成さないことが意味を成します。夢を見ている時には、死んだ人が生き返って、話しをすることもあるでしょう。夢の中では、過去の出来事を今、未来の出来事を今、見ることが出来ます。過去、現在、未来が同じなのです。出来事の起こった順序はあるのですが、時間という概念はありません。ギリシア語ではクロノス(chronos)と カイロス(cairos)という時間を表す言葉が、二つあります。永遠で

はクロノスはあるのですが、カイロスはありません。言い換えれば、永遠では時計が動く

ことはなく、もはや時計すら無いのです。年代順配列(chronology)であるクロノスはありますが、そこに時間は無いのです。

夢の中では、過去の出来事がもう一度起こったりします。ジョージ・ワシントンがデラウェアを渡っているのも見ることが出来るでしょう。何でも見ることが出来ます。将来起ころうとしていることも見れます。カリフォルニアへの旅行のようなものも見れるでしょう。未だ見たことが無いことも見ます。黙示録のように、死んだ人が生きているのを見るかもしれません。子羊は世のもといが置かれる前から、ほふられていました。彼は座についている24人の長老を見ました。彼は未だ起こっていない未来の出来事を、そこでその時、見ていたのです。眠りにおちると夢を見ます。生理学者は、私たちすべてが夢を見ていることを知っています。脳造影図や脳のアルファ波などによってです。皆が夢を見ているのです。

あなたの意識は違う領域に入り、そこは起きている間には意味を成さないことが意味を 持ちます。死んでしまったときはそのような状態です。そこで出てくる問題は、私たちの たましいは眠りにおちるのでしょうか?それとも主のもとに行くのでしょうか?というこ とです。私たちに関していえば、墓の中にいるのです。永遠に関していうと、それはすで に起こっています。エペソ人への手紙にあるように、私たちは天上において、キリストと 共に座についているのです。永遠に対して時間を適用することは出来ません。その点から カルヴァン主義は間違えています。永遠の保障とはあるのでしょうか?はい。永遠の中な ので、それはすでに起こりました。しかし、聖書の中で永遠の保障とは、一度救われたら、ずっと救われているということではありません。私たちにとっては、それは変わりえるも のです。永遠の保障はありますが、それはカルヴァン主義者の考えているようなものでは ありません。彼らはそのことに関して全て混同しているのです。

彼らは眠りにおちました。キリストは眠った者の初穂です。これはヘブライ人の初穂の祭りの、メシアによる成就です。その初穂の祭りである日曜日、ヨム・リションには何があったのでしょうか?それは過越の週の日曜日でもあります。その日曜日に、シナゴーグでは雅歌(ソロモンの歌)が、今日まで読まれています。日曜日のまだ暗く、夜明け前に、神殿から遣わされた大祭司が、ケデロンの谷へと降りて行きます。彼はケデロンの谷で、オリーブ山の後ろから射し込んでくる、最初の光を暗闇の中、待ちます。彼がその太陽の光を見ると、ケデロンの谷から生え出た最初の穀物を、儀式的に収穫します。それが初穂と呼ばれる物です。

すべての福音書には、イエスは日の出の時に復活したとあります。私がしばしば示して

きたように、太陽(sun)が昇るということは、御子(Son)がよみがえるということの、聖書文献学上の比喩です。旧約のイザヤ書でさえも、起き上がれそうすれば照らされると書かれています。しかし、よみがえった主の栄光は太陽よりも輝かしいものです。すべての福音書は、復活はまだうす暗いころ、日の出のちょうどその時だと書いています。その年、その日、その時に大祭司は初穂を収穫し、神殿に持って行きました。イエスはその復活の初穂としてよみがえられました。

それは園の中のことでした。では、園で何が起こったかを見ていきましょう。人は園において堕落し、園においてのろいを受けました。しかし、園において、神さまはわたしたちの罪を取り去り、そのために捕らえられました。また園において、彼は十字架にかけられ、そのつけられた場所には園がありました。彼は園において、私たちの代わりに十字架にかけられました。しかし、また他のことが園の中で起こりました。

ヨハネ20章1節、週の初めの日、ヨム・リションであるヘブライ人の初穂の祭りの時、ガリラヤのマグドル(その場所に塔があったという意味)出身の、マグダラのマリヤがま だ暗いうちに墓に来ました。大祭司がまだ暗いうちに、園に行かなければならなかったの と同じように。彼女は墓から石が転がしてあるのに気付いて、シモン・ペテロとイエスが 愛されたもうひとりの弟子とのところに来て、言いました。「だれかが墓から主を取って 行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」そうです、悪い知らせ は女に最初にやって来たので、良い知らせは女に最初に来なければならなかったのです。 なぜであるか分かりますか?男ではありません。女でなくてはならなかったのです。のろ いは最初に女に来たので、良い知らせが最初に、女に来なくてはなりませんでした。悪い 知らせが最初だったので、良い知らせも最初だったのです。

『そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。』これはその文化で特徴的なことです。古代中近東において聖書の時代、大工は何かを建築する依頼を受けた時や仕上げる時、着物を吊り下げます。そして、一日の終わりにそれで汗を拭き取るのです。しかし、一日の終わりに仕事が終わると、着物やタオルをたたんで、そこに残します。

『そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解して

いなかったのである。それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。しかし、マ

リヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。』また、このふたりの御使いは、契約の箱の上のふたつのケルビムと関連しています。『彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」』彼女は、それを園の管理人だと思っていました。その前の日の雅歌の中で、園の管理人は何と言っていたでしょうか?「愛する人よ、私の庭(園)に入りなさい」です。創世記では、御使いは「ここを出ていけ」と言いました。「園から出ていけ、もう入ってはならない」しかし、イエスが園において私たちの罪を取り去って、死者の中から復活されたので、今、御使いは「入ってきなさい。彼はよみがえったのですから。入ってきなさい。」と言うのです。

女性はより敏感です。女性は最初に理解します。しかし、男性は少し頭が鈍いところがあります。話を続けると、彼女は使徒たちに伝えようとしました。『彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で(本当はアラム語のヘブライ方言ですが)、「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」』ヨハネの福音書では以前に、イエスは御父をわたしの父と呼び、それは個人的な所有格でした。しかし、いったん彼が私たちの罪を取り去り、死者の中からよみがえったので、今、神は私たちの父なのです。

マグダラのマリヤは使徒たちに知らせに行きました。――女性は最初に理解します。私 はこの問題について確信しています。夫と妻が救われる十中八つの場合に、妻が最初に救 われます。マグダラのマリヤは使徒たちに知らせに行きました。『「私は主にお目にかかり ました」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。その日、すなわち週の初めの日の夕方(ユダヤ人は一日を日没から日没までと考える)のことであ った。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、 彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。(シャローム アレヘム shalom alechem)」』これは人々がユダヤ人であったことを、示しているのではありません。

彼らは皆ユダヤ人で、イエスもユダヤ人でした。皆がユダヤ人でした。マリヤもユダヤ人

でしたし、使徒たちもユダヤ人でした。これは、ギリシア語でユダヤの人を意味するユデイオイ(yudeioi)の翻訳の問題です。そのユダヤ人とはエルサレム周辺の宗教組織やそれを支配していた人々のことです。皆がユダヤ人だったので、ユダヤ民族を指していたのではありません。エルサレム周辺の宗教組織、サンヘドリンやそれを支配していた人々のことです。イエスは平安があなたがたにあるようにと言いました。

サミュエル・ジョンソン博士は皮肉的に、実際その通りですが、その辞書で平和を「二つの戦争の間の、準備と欺きの期間である」と定義しています。私たちは平和を、ギリシア語の女の子の名前、イレネ(Irene)、争いの無いことであると考えがちです。それはこの世が与える平和です。神さまの平和はシャローム(shalom)です。最終的には、その平和は争いの無いことを含んでいます。再臨の時、国々は剣をかまに打ち直します。最終的には、シャロームは争いの無いことを含んでいるのです。しかし、争いの無いことはシャロームではありません。シャロームはヘブライ語のレシャレム(leshalem)という言葉の不定詞から来ています。レシャレムとは「払う」ということです。これは聖書の中のヘブライ語のレ・マロット(le malot)と同義語です。それは「満たす」という意味です。これは現代ヘブライ語ではなく、聖書のヘブライ語です。「満たす」ということです。そして、

「成就する」という意味もあります。シャロームという言葉はレ・シャレムから来ました。

それは「払う(pay)」「満たす(fill)」「成就する(fulfill)」という意味です。私たちはシャ ロームを持っています。なぜなら、イエスが私たちの罪の代価を払い、私たちを御霊で満 たし、律法(トーラー)を成就したからです。シャロームを持っているのです。なぜなら、 メシアがレシャレムを行いにきました。つまり私たちの罪の代価を払い、私たちを御霊で 満たし、律法を成就したのです。なので、人生で大きな争いに巻き込まれていても、シャ ロームを持つことが出来るのです。または、完全に静かな状況にいても、それを欠いてい るかもしれないのです。イェシュアは『わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。』と言いました。『わた しの平安』それが彼の言ったことです。

しかし、明らかな疑問が残ります。園において、私たちはそれを台無しにしたのです。園で自分自身にのろいを招きました。けれども、園において、神さまが贖いを約束してくださいました。あなたが信じるか信じないかは問題ではありません。人は一度死ぬことが定められており、その後は裁きなのです。今日私が言っていることを信じなくても、あなたが信じる時が来ることを知っています。しかし、それでは遅すぎるのです。大事なのはこのことが真実か嘘かということです。私はこれが真実であることを保障しましょう。あなたはいつか信じるのです。しかし、それではもう手遅れです。今が定められた時です。今日が救いの日なのですから。

アダムとエバと同じように、あなたは聖い完全な神さまの前に、裸で立っています。そ

して、世にあるすべてのいちじくの葉は、十分ではありません。どんなに多くのいちじくの葉も、あなたを神さまの怒りから救うことは出来ません。もしかしたら、あなたは善い行いや、社会から善い人と呼ばれることに、頼っているかもしれませんが、あなたがどんなに善くても、天国に行くのに十分ではありません。どんなに善くても、地獄に行かないでいることは出来ません。しかし、あなたがどんなに悪くても、神さまが愛さず、あなたを救いたくなくなるようなことはありません。

私は有利だったと言えるでしょう。私はプロテスタントの文化の中で育ちもしなかった し、新生したクリスチャンがどのようなものかも知りませんでした。17才になったころ、私はヘロインに浸っていました。なので、誰かに自分が罪人だということを、特に教えて もらう必要はありませんでした。すでに分かっていたからです。悪魔は麻薬、不品行、ギ ャンブルやそれらをまとめた罪を用いるよりも、宗教を用いて人々を地獄に送ります。い ちじくの葉です。いちじくの葉は地獄の住民を増やすのです。そのように、あなたは裸で 造り主の前に立っており、いちじくの葉をつづり合わせているかもしれません。宗教に頼 っているのです。血が注がれることがなければ、罪の赦しはありません。

しかし、あなたの代わりに園に入って来た人がいます。ちょうど、裁判官、検事や弁護人のいる裁判を考えてみてください。裁判官、検事も弁護人もあなたに賛成しているか、反対しているかのどちらかです。裁判官があなたの弁護人だということを想像してみてください。もし、裁判官があなたの弁護人なら、検事がサタンだとしても負けることはありません。反対に、裁判官が弁護人でなく、検事なら、あなたは勝てません。しかし、あなたは勝てます。どのようにしてでしょうか?彼があなたの罪を取り去ってくださることによってです。園において、彼はすでにそれを取り去りました。あなたはそのことを受け入れるだけです。これが福音です。彼がすでに罪を取り去ったので、あなたは受け入れるだけなのです。

いちじくの葉に何の良いこともありません。秘跡、勤行や宗教などに良い点はありませ ん。それはいちじくの葉なのです。私は善い行いに反対しているわけではありません。私 たちは善い行いをします。それは救われたからであって、救われるためにではありません。それは園で起こりました。選択はあなたのものです。彼はあなたの罪を取り去りました。 罪から立ち返って、神に赦しを乞うことも出来るのです。神さまがあなたの人生に入って くださるように、新しいいのちを与えてくださるように願ってください。神さまはあなた をバラバのようにします。あの人はこれをした、この人はあれをしたと言うかもしれませ んが、しかし、今、御父の子がいます。「わたしを連れて行きなさい。」彼はあなたをい

ちじくの木の下で見たのです。彼は使徒に言ったことをあなたにも言いたいのです。彼は

言いました。「平安があなたがたにあるように。」シャローム・アレヘム。シャロームがほしいですか?何も問題はありません。それを持つことが出来ます。なぜなら、それは払われた(レシャレム)からです。園において、罪の代価は払われたのです。あなたを御霊で満たし、あなたが守ることの出来ない神の律法を成就したのです。これがイエスがマグダラのマリヤ、ペテロ、ヤコブやヨハネに伝えたことです。そして、これが私にも告げられたことです。もし、あなたが新しく生まれていなければ、今日、イエスがあなたに伝えたいことです。シャローム・アレヘム。

ジェイコブ・プラッシュ

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